社内政治とは

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知識習得

前項までで、オッチャンテイミングという概念と、その具体的手法について解説してきた。

自分自身がまず心配性なのか、放任主義なのか、ベースのタイプを知る。

その上で、自分の上長がどちらがベースなのかを観察し、心配性:放任主義の割合についても考えてみる。

マトリクスに分類するならば、この「放任主義ー心配性」の度合いが横軸となる。

さらに縦軸として、人格的な修養が積まれているかを確認する。

するとマトリクスが作られる。

大体の場合は人格は「並」で常人である。

そのため前項で解説した「幻術」をかければ、飼い慣らすことができるであろう。

しかし、稀にいる人格が高い人にあたった場合には幻術は禁止だ。

人格が高い人は、普段から幻術を仕掛けられることが多く、その存在に辟易としているし、そういうムーブをしてくる人を少人物みなし警戒するからだ。

ゆえにそういった人格者には正攻法であたっていくのが最良となる。

仕事の成果と、曇りなき友誼の感情でもって接しよう。

それが最速の道である、というのが前項までの話だった。

本項では、そこから一歩踏み込んで、社内調整だけでなく社内政治について触れていく。

決裁を得るための「社内調整」はオッチャンテイマーとなれば難しいことではなくなる。

ただ、それだけでは社内での昇進や、より有利な条件での働き方を手に入れるには不足だ。

というのも、下働きで、戦場で槍を持って戦っている限りは「働き方」の条件改善はなされないからである。

「昇進」も、半端な昇進ではやはり、世間で言われるように負担だけ増えて昇給に見合わない、となる。

昇進するなら思いっきり昇進すれば良いし、その途上であっても特権階級的ポジションは獲得できると私は考える。

そのための社内政治の方策を、私なりに述べていく。

「社内政治」とは

社内政治というのは、具体的に何なのか。私はずっと考えてきた。

若き日の私は、これまで述べてきた「オッチャンテイミング」や、違う言い方をすれば「ジジ殺し(年配者に気に入られること)」というものが社内政治なのかと思っていた。

サラリーマンの生態の参考にと思い『課長 島耕作』シリーズも読んだ。

もちろんこれは漫画で、ファンタジーではあるけれども、会社員・組織人ということについては作者の弘兼憲史先生の見識はとても深いものがある。

その島耕作シリーズを読んで(社長編まで当時は一気読みした)、社内政治というのは人間関係、つまり仲が良い人同士で派閥を作っていく、ということなのか?と思ったこともある。

しかしそんな仲良しクラブ的な派閥争いだけで成り立つのは、事業が順調な時だけだ。

歴史を顧みても、いわゆる治世のときに権力闘争は発生する。

乱世においては権力闘争は意味を持たない。実力が重視される世界だからだ。

ちなみに『課長 島耕作』は高度成長期〜バブルの頃の話である。

そのため、派閥争いの話からスタートするのである(宇佐美専務と大泉専務が副社長の座を争う話)。

そして私の勤務先、関連会社、お取引先の人事、等々を鑑みて見つけたことを共有する。

「社内政治」という言葉を具体的に言い換えると「いかに主流派の高い地位に組み込まれるか」ということである。

主流派とは:サル山の理論

主流派とは、企業の場合は社長、もしくは会長の仲間のことである。

一見すると社長が最も強いように見えるが、先代の「会長」が存命の場合には社長はお飾りになっているパターンも多い。

江戸幕府初期の、家康公が存命している時の将軍・秀忠公のような状態である。

形式上は、家康公は大御所となって権力の中枢から退いている。

そのため最高権力者は将軍である秀忠公であるのだが、結局は大御所(家康公)の意見を伺い、その意向に逆らえないのである。

組織というものは、いかに平等だとか、誰にでもチャンスがあると表面では述べていても、結局は人間という動物の集合体である。

それは、動物園のサル山と全く変わらない。

サルの群れには序列があり、ボス猿を頂点とするヒエラルキーがある。

サルの場合には暴力で解決がなされるが、現代の人間社会においては社会的な待遇によって解決がなされる。

それはわかりやすいところで言えば給与、労働条件、職場での扱いだ。

もちろん、違法な行為(残業代未払い、時間を大きく超えた労働を強いる、パワハラ)などは、労基署が目を光らせているため不可能であるが、

  • 「昇進させない」
  • 「要職につけない」

という形で主流派から追い出すという制裁は可能である。いわゆる「干す」というものだ。

昇進しなければ給与も大きくは上がらない。

つまりは、違法にならない範囲でオイシくない立場へ追いやることはいくらでも可能なのだ。

そしてオイシくないところに配属された人はそのうち不満を持って、自主退職していく。

言い方を変えれば、主流派は、意にそぐわない者をこのような方法で、会社という群れから排除することができるのである。

ゆえに主流派は、主流派のまま。何も変わらない。

こうして群れの秩序は守られていくのである。

主流派は、組織編成をする権限を持っている。

この権限はとても強い。

国会議員や市議会議員の選挙のように、従業員ひとりひとりが一票を持って投票する形で取締役会が選出されるのならば話は別だが、そうではないからだ。

主流派は、誰を昇進させるかの決定権を持っているし、社員等級によって給与も決定できる。

職場の配置によって、仕事の種類・量・強度・負荷もコントロールできる。

このような権限を合法的に持つがゆえにサル山における主流派は、やはり強いのである。

サラリーマン処世術の注意点

このような背景をわかっている人は、いかに主流派に気に入られるかを考える。

そうするとまずは直属の上長との関係を良化させようとする。

もちろんこれは悪い戦略ではない。

少なくとも、その上長の人は一定の評価を得ているからこそ、主流派に認められて、部長なり課長なりを任されているからだ。

しかしその彼が幹部まで届くか否か、はまた別の問題である。

主流派が「この人はいずれこの会社の柱石になってほしい」という期待をかけて課長にしている場合には、その課長との関係を良化させることは正しい戦略となる。

しかし主流派から評価されているとは言ってもその評価が「部隊長までなら任せられる」である可能性もある。

悪い言い方をすれば

「彼は年次も長いから何らかの役職をつけなくてはいけないな…仕方ないから部隊長くらいにはしておくか」

というパターンもある。

この場合、彼はいつまでも部隊長止まりで、真の主流派の幹部にはなれずに、定年まで続いていく。

このタイプの人といくら関係を良化させても、あなたが真の主流派に入れるかどうかは怪しい、というのはすぐにわかると思う。

狙うべきは真の主流派に属する人の派閥に入ることだ。

自分の上長との関係を良化させていたら、それが偶然、主流派に繋がっていたというパターンはある。

しかしそれは偶然であるから、ここは戦略的に主流派への所属を狙っていかなくてはならない。

そして後述するが、真の幹部となる人は誰にでも擦り寄るお調子者は好まないので、誰彼構わず尻尾を振ることはかえってリスクになる。

危ないのは非・主流派で失脚の可能性がある派閥に所属してしまった場合、もしくは所属しているとみなされた場合だ。

自分がそう望んでいなくても、主流派から「彼もアッチ(非主流派)だろ?」と思われてしまっていたらその時点でアウトだ。

島耕作でいえば、初期の島耕作は宇佐美専務の派閥に属していると「思われて」いた。

もちろん島耕作は宇佐美派閥に属しているつもりはなかったのだが、誤解をされてしまい巻き添えとなる。

敗れた宇佐美派閥の者達は、本社から地方営業所へ異動、宇佐美専務も地方支社の監査役となり権力の中枢から姿を消した。

あのとき島耕作が勝利した、大泉派に素早く所属していたなら、京都・電熱線事業部編は始まらなかったと思われる(漫画的には京都編が面白いのだが)。

そのため誰と仲良くなるか、どの派閥に所属するかは大切なのである。

主流派の見分け方

中小企業であればその流れを見極めることは簡単だ。

会長・社長と、現在の幹部。そこに直通している部署長。

この部署長クラスの経歴を調べてみよう。

いくつのときに課長になり、部長になったのか。

主流となる人は若くして引き上げられている場合が多い。

また、社内でも花形の部署や主力の製品や重要顧客を担当してきた等、わかりやすいものもある。

対して、非主流の人の場合は、歳を取ってからの昇進や、メインでない商材や顧客を長年やってきている場合が多い。

有り体に言えば、仕方ないから部長にした、というようなパターンだ。

こういう人は部長もしくは課長という「部隊長」でずっと留まる。

役員や幹部という「指揮官」にはならない。

社内政治は、いかにこの「指揮官」と同じグループに属するかがポイントとなる。

指揮官グループに属して、そして正しい努力をしていると、次世代の指揮官候補として引き上げられる。

人間は歳を取ってしまうから、5年10年単位では組織運営において後継者が必要なのだ。

この後継者になれると、下働きーーいわゆるブルシットジョブからは解放され、戦略を立てる指揮官となる。

今ある流れから主流派を見つけることができたなら、次はオッチャン達の気質のベースを観察しよう。

主流派にいるオッチャンはベースが放任主義であることが多い。説明していこう。

放任主義ベースが主流派になる理由

放任主義のオッチャンは、その名の通り放任主義であるので、基本的に部下の行動に関心が薄い。

しかし勘違いしてほしくないのは、この放任主義オッチャンは「行動」には無関心だが「結果」には厳しいということだ。

「プロセスは好きにやって良いが、ビジネスとしての成果はちゃんとしろよ」

というスタンスである。

これはビジネスマンとしては一流の気質であると言える。

ちなみに「サラリーマン」と「ビジネスマン」は、似て非なるものである。

もちろん、雇用されて給与所得を得るという形態でみれば皆、サラリーマンであるのだが、その中の上位存在として「ビジネスマン」があると私は考える。

サラリーマンは「給料をもらえるならなんでもいい」と考え「それならば仕事はラクな方が良い」と考える。

それに対し、ビジネスマンは、仕事(ビジネス)を通じて自己実現しようとする。

生来の気質として金稼ぎや成果を出すことが好きな人を指す。

ビジネスにおいてはプロセスよりも結果が重視されるという価値観は、営業職として適した気質でもある。

そして会社という組織においては、指揮官にこの気質がなければ、厳しい資本主義経済を渡っていくことはできない。

そのためこの「プロセスより成果」というビジネスパーソンの意識なくしては企業の要職は務まらない。

企業という組織を運営していくにあたっては、要所要所の「指揮官」が自律駆動型戦闘ロボット気質であった方が良い。

そうでないといつまでも社長が前線でマイクロマネジメントする必要があり、社長の負担が減らないからである。

主流派の形成

社長が率いる主流派は、自社の舵取りを任せられる優秀なビジネスマンを求めている。

言い換えれば、社長がラクになるように、自律駆動して部下を率いて戦闘し、成果を上げてきてくれる指揮官を求めている。

漫画『キングダム』で例えるならば、秦の六大将軍のようなものだ。

秦王にとっては、大将軍たちが自主的に他国を攻撃して侵略していくことが好ましい。

もし秦王がひとりで軍を率いるとなれば、秦王は大変すぎるし、効率が悪い。

優秀な将軍を多く抱えて、その将軍達が力を発揮して侵略が進むように秦王は制度を整えたり、必要な物資や兵隊を前線の将軍に送ったりする。

そして六大将軍を選ぶのは、秦王である。

これと同じことが現代の企業でも当てはまる。

社長という王がいて、社長の仕事を部分的に代行して戦う将軍がいる。

その将軍の任命権は社長が持つ。

さらにその将軍の下、五千将や千人将、百人将の任命権は将軍が持つ。

ここで将軍の立場になって考えれば、やはり千人将や百人将は自律駆動型で臨機応変に戦ってほしいし、自分が細かく指示しなくても、勝手にうまいことやってほしい。

小規模の小競り合いにいちいち将軍が出張って、最前線に立っていたのでは大変すぎるし効率が悪い。

そのためまずは小規模の戦闘から、自動で戦って勝利できる者を見出して、将にしていく。

これができるものがすなわち、自律駆動型戦闘ロボットの気質を持つ者、放任主義の因子を多く持つ人なのである。

ちなみに元来が「心配性」の人であっても意識することで放任主義のエッセンスを取り入れることは可能だ。

それは本項で述べた通り「自律駆動型戦闘ロボットにならねばならない」という意識を持つことから始まる。

心配性ベースの人は、行動を起こす際に心配になってしまう。

「勝手にやっちゃっていいのかな」

「指示を仰いでおかなければ」

「自分の責任になってしまう」

と、このように自分の判断に自信がない。

また同時に、判断を上長に委ねることにより失敗した時の責任から逃れようとしてしまっている。

ちなみにこのような責任逃れを志向する気質は、将軍には向かないので昇進はない。

そのためやはり、心配性ベースの人は努力して「自律駆動型戦闘ロボットにならねば」と意識を入れ替えることから始まるのだ。

まとめると、ビジネスという現場で成果を上げることが好きなビジネスマン気質を持つ「放任主義」派が、次世代を任せられる同じく「放任主義」のビジネスマンを部下の中から見出す。

この一連の流れから、自然と主流派が作り出されるのだ。

この主流派に属することで、強い権限を与えられたり、幹部に直接相談できることになる。

その結果として社内政治を有利に進めていけるようになる。

社内政治は、結局はサル山だ。

ビジネスに秀でる放任主義ベースのビジネスマン気質のサル達が主流派となり、その意見が常に強い。

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